「縦横夢人」2021年冬号(No.31)2021年2月15日発行)
活動報告
近況報告
宮野 秀樹
あまり多くの人に知らせてはいませんでしたが、昨年4月より兵庫県を離れ沖縄県で生活しています。驚かれる方が多いでしょうね。理由も含めて現在の私の近況を報告します。
私が所属するNPOの新規事業を沖縄の地で展開することになり、私がその陣頭指揮をとることになりました。私は全介助を必要とする障害者で、障害福祉サービスを受けなければならないため、住所を沖縄に移す必要がありました。那覇市民となって早9ヶ月が経ちます。
私のような重度障害者が慣れ親しんだ環境を離れ、新しい場所で新たに環境を作っていくのは大変な労力を要するように思われがちです。実際に大変でした。ただ、このような挑戦をする機会は、なかなか手に入りません。このチャンスを最大限に活かすべく、そして与えられたミッションを果たすべく、意気揚々と沖縄に乗り込んできたのが昨年4月4日でした。その直後の4月7日に新型コロナウイルス感染症拡大による緊急事態宣言が政府から発出され、外出自粛による自宅待機を強いられることとなりました。
BADタイミングであったかのように考えられますが、私にはGOODタイミングでした。実は沖縄入りの10日ほど前に電動車椅子で走行中に左足を引っかけてしまい、左足首を骨折していたので、外出自粛は良い療養期間となりました。
それでもやはり最初は苦戦しました。最初につまずいたのが、障害福祉サービス受給者証の発行でした。移住前に何度か那覇市役所を訪れ、スムーズにサービスが受けられるよう打ち合わせを重ねましたが、サービス支給時間決定のための審査会がコロナ禍により開いてもらえませんでした。支給決定されたのが6月半ばでしたので、2ヶ月あまりは兵庫県で受給していたサービス支給時間と同じ時間数が受給できるかわからないまま過ごしました。結果的には那覇市に転入した日にさかのぼってサービス支給が認められましたが、かなり焦ったのは事実です。みなさんも住所地を移される際には、半年前から移住先の障害福祉課との打ち合わせをお勧めします。
その次に困ったのが、かかりつけとなってくれる医療機関を見つけることでした。すぐ見つかるだろうと安易に考えていたのですが、コロナ禍により総合病院や個人クリニックはどこも初診を受け付けてくれず、紹介状があるにもかかわらず病院難民となりました。診察が受けられないのは我慢できるとしても、薬の処方が受けられないのが苦しかったです。相談支援専門員から紹介を受け、訪問診療(往診)をしてくれるクリニックが見つかり、薬の処方や膀胱瘻のカテーテル交換の問題は解決しました。
介助者募集活動がうまく進められなかったのも誤算でした。大学や医療系専門学校に募集活動を行う予定でしたが、これもコロナ禍により学校での対面式授業が中止になり、すべてがリモート授業となったため、直接姿を見てもらっての募集ができなくなりました。広告での募集も、コロナ禍での混乱が原因であったのか、当初は全く応募がありませんでした。それでも地道に募集を続けた結果、徐々に介助者も増え、現在ではなんとかシフトが回る状態になっています。
コロナ禍で年度初めのイベントなどはほとんどが延期や中止になりましたが、6月くらいからは全国的にもオンラインで会議やセミナーなどが行われるようになり、それに合わせて個々の環境がリモート対応できる環境に整備され始めたので、すべてがパソコンと向き合うことで済むようになりました。私もほとんど外出することなく、Zoomでの会議が日課になりました。たまに食材の買い出しで外出するくらいで、それも介助者にお願いするようになると、ますます家に閉じこもる日が多くなりました。今から考えると6月から9月くらいまでは気分が落ち込んでやる気を失っていたように思います。それでもなんとか持ち直したのは、仕事や自立支援活動、頸損連絡会でのセルフヘルプ活動、大学や専門学校での講師活動があったからだと考えます。
といいながらも、やはり私はなにかしでかす男です。昨年11月半ばに電動車椅子の誤操作で、左足脛骨を骨折してしまいました。見た目にはわかりませんでしたがかなりの重傷で、3ヶ月たった今もまだ骨はくっついていません。1年に2回も骨折するとはお恥ずかしい限りです。
新型コロナウイルス感染症により世の中は一変しました。社会構造の欠陥が噴出し、先の見通せない霧の中を進んでいるようで、誰もがなにかに怒りをぶつけないと正常さを失ってしまいそうな、そんな危うさが社会を包んでいたように思います。私自身も沖縄に移っての当初は「沖縄に来た意味はあるのかな…」と悩んだりもしましたが、時間の経過の中でいろいろなことに気づくこともできました。
沖縄からどのようにして兵庫頸髄損傷者連絡会の活動を行おうか、全国を飛び回ろうかと考えていましたが、オンラインで会議や打ち合わせ、相談や交流会、セミナーやシンポジウムをこなしていくうちに「どの場所にいてもやれることは多い」と思えるようになりました。
朝起きてから晩寝るまでを家の中で過ごし、決まった時間にオンラインで仕事やミーティングを行っていくのは、最初は苦痛でしたが、身体のケアや家事に時間を割くという自立生活の基本を見直すことで、今までいかに介助者任せであったかということに気づくこともできました。毎日食事を考えて、調理して食べるという当たり前の行為が、介助者との関係性を劇的に良好にしました。毎日の3食が楽しくなりました。
自分にできる方法で社会に貢献すればいい。そのために社会と交わっていかなければならない。この考えで行動してきましたが、そこに「どんな環境、場所、状態でも、やろうと思えば何でもできる」が加わりました。
NPOの新規事業には、兵庫のスタッフが数名移住して加わっています。私以外は全員20代です。若きスタッフと仲良く仕事をしていこうと考えています。最近ではビーチ清掃ボランティア活動に介助者と参加して、我々の活動を沖縄の地に広げるべくアピールしています。
沖縄は桜が咲き出しました(2月上旬)。桜はどこにいても見られるのですね。私もどこにいても元気です。今年もまたどこかでお目にかかりましょう。めんそ~れ~!