頸損ロードマップ 病院編 入院時を振り返ってみて 「縦横夢人」2020年冬号(No.27)

「縦横夢人」2020年冬号(No.27)

特集

頸損ロードマップ
病院編


入院時を振り返ってみて

PDF 頸損ロードマップ 病院編 入院時を振り返ってみて

橘 祐貴

 今号の特集テーマは「ロードマップ:病院編-入院から退院するまでに準備するべきこと-」です。受傷してからはじめに過ごすのが病院です。人にもよりますが、在宅生活に戻るまでの数か月~1年強の間にいろいろと物事を決めたり在宅生活の準備をしたりしなければならず、まだ自分の状況をあまり理解できないうちに物事がどんどん進んでいくので戸惑うことも多々ありました。受傷してから15年がたち記憶があやふやになってきてはいますが、当時を思い出しながら受傷してから在宅生活に戻るまでの間にある課題等について書こうと思います。
 まずは受傷直後に行われたことについてです。自転車で帰宅途中に路肩に停車中のトラックに追突してしまった私は救急車ですぐ近くの災害医療センターに搬送されました。そこで数日内に頸椎の固定手術や気管切開、胃瘻の造設などの処置が行われました。とは言っても受傷してから数カ月間は意識があったりなかったりしている状態だったので、この頃の記憶はほとんどありません。もちろん私自身が何か物事を決められるという状態ではありませんでした。意識が戻ってからも受傷前後の記憶が当時はなかったので、ある日目が覚めたら突然病院のベッドの上の状態。「自転車事故で首の骨を折ったから病院にいる」と言われても信じることができず、何故自分が病院にいるのかを理解することができませんでした。また怪我の影響からなのか、受傷してから半年強の間は目がほとんど見えていませんでした。誰かが来ても真っ暗な空間に影のような人の輪郭が見えるだけ。声もほとんど出せなかったので、相手と意思疎通する手段はまばたきの回数でイエス・ノーの意思表示をする事ぐらいしか出来ませんでした。当時は目が見えていない事に気づいてもらえず、意思疎通もスムーズにいかなくてもどかしく思っていました。受傷してから急性期の間を災害医療センターで過ごし、その後に同じ敷地内にある神戸赤十字病院に移りました。
 受傷した当時は高校3年生の秋だったので、半年後には卒業式が控えていました。高校3年間トータルの出席日数は足りていたのでそのまま卒業するのか、それとも1年留年して復学するのかを決めなければなりませんでした。この頃はまだ自分が置かれている現状を理解できていない状態ではありましたが、同級生と一緒に卒業したいとの思いから卒業することを選びました。在宅生活に戻るまでの入院期間が結局1年半近くになっていたので、もしあの時留年を選んでいても復学できなかったのかもしれません。
 受傷してから数カ月が経ち、高校を卒業した直後に神戸赤十字病院から甲南病院に転院しました。初めのうちは一般病棟にいましたが、胃瘻を外したころから次の転院先が決まるまでの間は療養病床で過ごすことになりました。療養病床なので当然周りは認知症のお年寄りばかりで夜中に徘徊のおじいさんがやってくることもしばしば…。今までに経験したことのない独特の環境に慣れるのにはかなり時間がかかりました。この頃のリハビリは発声や嚥下の練習、関節のストレッチが中心でした。新聞等の記事を読んだ後に内容について答えるという記憶力のリハビリもありました。自宅に戻るためにリハビリ病院の転院先を探していましたが、C1の患者を受け入れてくれる病院はなかなか見つかりませんでした。甲南病院は通っていた高校から近い病院だったので卒業してからも友人達がちょくちょく顔を出してくれたのは嬉しかったのですが、自分だけが取り残されているような気がして、先が見えない現状に焦りを募らせていました。
 受傷してから約1年が経ち、ようやく兵庫県立リハビリテーションセンター中央病院への転院が決まりました。リハビリ病院なので脊髄損傷の人も何人かはいたと思います。ただ私が入ったのは整形外科ではなく神経内科の病棟だったので他の脊髄損傷の患者と交流するという事はあまりありませんでした。病室のナースコールが呼気式になったので、何かある時も自分で看護師を呼ぶ事ができるようになり、ナースコールにストロー替わりのチューブを這わすことで好きな時にお茶を飲めるようになりました。この頃には自分の怪我についてある程度は理解できるようになってはいましたが、心の中ではまだ「リハビリをすればもっと動けるようになるかもしれない」と思っていたりもしました。しかし起立性低血圧が酷く、なかなか思うようにリハビリができないうちに半年近くがたち、ようやく電動車いすの練習を始めたころに退院することになりました。
 自宅に戻るのにあたって、まずは自宅で生活するための環境の準備が必要でした。幸い自宅は築数年のマンションで段差も玄関にわずかにあるだけだったので車いすで過ごすために改修が必要な箇所は特にありませんでした。次に電動ベッドやリフト等の福祉用具を揃えることになりました。この時にネックになったのが180cm近くある私の身長でした。福祉用具は利用者の絶対数が多い高齢者向けに作られているものが多く、私の身体に合うものは限られていました。そのため機能的に良さそうな製品があっても別の製品にしたこともいくつかありました。
 電動ベッドを使用するためにはマットレスも必要です。病院では褥瘡予防のためにエアマットを勧められましたが、どの製品が合うのかわからなかったので当分の間はレンタルで借りることにしました。介護保険ではないのでレンタル料は10割負担でした。半年ほど使用しましたが、エアマットは通気性が悪く、蒸れで熱がこもったり汗で皮膚が負けたりと私には合わなかったので使用をやめました。病院で勧められても実際に在宅で使用してみると合わないこともあるので気をつけた方がいいです。障害も介護保険のようなレンタル制度があれば自分に合った製品を見つけやすいのではないかと思います。
 介助用車いすも生活するためには必須のものです。起立性低血圧の対処や除圧が行いやすいティルト・リクライニング式の車いすが必要でしたが、ここでも私の身体に合うものは国内メーカーでは見つからず、海外メーカーの中から選ぶことになりました。病院や一時帰宅の際にデモ機を使用してみて、より使いやすいと思った機器を選択しました。退院前に車いすを決めたのですが、海外製の車いすなので取り寄せに時間がかかり、退院してから3カ月ぐらいは車いすをレンタルで借りていました。
 在宅生活を始めてからも数回ほど病院から相談員の方が自宅に来て、生活をするうえでのアドバイスをもらいました。例えばパソコンを使用するための支援ソフトについて何種類か紹介してもらいました。環境制御装置の貸与を行っている財団があることも教えてもらい、その後申請が通り機器が貸し出されることになりました。病院で指導してもらっていても、実際に自宅に戻ってみると「これはちょっと違うな」ということは多々あります。そのような時に専門の人に来てもらってアドバイスを受けることが出来るととても助かります。
 ここまで自分が受傷、入院してから自宅に戻るまでを振り返ってみました。課題に感じるのは「本人が状況を理解できないうちに物事がどんどん進んでいく」ことと「高位頸損者を受け入れてくれる病院がなかなか見つからない」ことです。頸髄を受傷すると今までの身体状況や生活が一変します。そのため自分が置かれている状況を理解するのにも時間がかかります。しかし入院期間には上限があり、思うようにリハビリができないうちに自宅に戻ることもあります。
 また「同じ頸損の人に出会うことができるかどうか」もその後の生活のビジョンを描くのに大きく影響すると思います。ただリハビリ病院に入っていても病棟が違うとなかなか当事者と出会うことはありません。今はインターネットで情報を探す人が多いと思うので、その人たちがアクセスしやすいように頸損連でもホームページやSNSで積極的に情報発信する必要があると思います。私も今までに経験したことを伝えていきたいと思います。


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