リレー連載 Road to Paralympic 第7回 変化する競技の歴史 「縦横夢人」2019年冬号(No.23)

「縦横夢人」2019年春号(No.23)
リレー連載

Road to Paralympic
第7回 変化する競技の歴史

PDF リレー連載 Road to Paralympic 第7回 変化する競技の歴史

三戸呂 克美

 突然ですが、日本でのオリンピック開催は何回目でしょう。2020年の東京オリンピック(夏季)の開催が決定した日本は、1964年の東京オリンピック(夏季)、1972年の札幌オリンピック(冬季)、1998年の長野オリンピック(冬季)と合わせて4回目のオリンピック開催となる。これはアメリカの8回、フランスの5回に次いで世界で3番目に多い開催回数である。(※2019年現在)
 私がオリンピックと出会ったのは、1964年の東京オリンピックであり中学3年生のときだった。当時(私の周辺で)テレビを持っている家庭は少なく、多くの人は家で観戦することはなかった。そんな状況下でも、授業時間中に実施される競技の中継は、学年別に時間割が決められ、体育館の舞台に設置された白黒テレビで観戦ができた。しかし、当時のテレビは画面も小さく競技を見たといっても詳しくは思い出せない。ただ、体操の競技は人気があり、特に鉄棒は多くの同級生が大車輪までできるようになっていたのには驚いた。ちなみに、私は逆上がりが出来なかった。
 さて、パラリンピックが現在のようにオリンピックの後に同じ競技場を使用して開催されるようになったのは1960年のローマ大会が第1回であり1964年の東京大会が2回目である。現在でも障害者のスポーツはリハビリの一環とされ、競技(スポーツ)とは認知されず、障害者スポーツに関する事業は厚生労働省の所管とされている。
 欧米では障害者スポーツは傷痍軍人の社会復帰を進める目的で発祥したため、福祉的側面から捉えられることが多かったが、次第に福祉的側面よりも競技としての性質が高まり、陸上競技や車いすテニス等でプロ選手が誕生し、「障害者アスリート」という言葉も使われるようになり、競技スポーツとしての側面がクローズアップされてきている。また競技性が高まるに従い、福祉ではなく「スポーツ文化」としての理解と支援を求める声が強まっている。
 我が国の方向性として、障害者のスポーツ大会は、1965年から身体に障害のある人を対象に行われてきた「全国身体障害者スポーツ大会」と、1992年から知的障害のある人を対象に行われてきた「全国知的障害者スポーツ大会」を統合した大会として、2001年から国民体育大会(国体)終了後に「全国障害者スポーツ大会」として同じ開催地で行われている。大会の目的は、パラリンピックなどの競技スポーツとは異なり、障害のある人の社会参加の推進や、国民への障害のある人に対する理解を深めることにある。
 いずれにしても体力や精神力を強くすることは日常生活の向上につながり、日々の会活動や障害者運動に影響を及ぼすので、大いに実践することをお勧めします。

(※参考資料1:国の担当部署)
 日本オリンピック委員会(以下JOC)は文部科学省が所管し、日本パラリンピック委員会(以下JPC)は厚生労働省の所管となっている。

(※参考資料2:報奨金)
 各国が報奨金で障害者スポーツ振興を図っているが、日本でもJPSA(日本障害者スポーツ協会)が実施し、2008年北京パラリンピック以降の金メダリストに100万円、銀メダリストに70万円、銅メダリストに50万円が贈られた。のちに増額され、2014年ソチパラリンピック以降の金メダリストに150万円、銀メダリストに100万円、銅メダリストに70万円となった。将来的には日本オリンピック委員会の報奨金と同額(金メダリスト300万円《リオデジャネイロオリンピックからは500万円》、銀メダリスト200万円、銅メダリスト100万円)とすることを目標にしているが、財源確保のための協賛企業の確保をいかにしておこなうか、そのためには大会自体のブランド価値を高めるという課題が残る。


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