「縦横夢人」2020年秋号(No.30)2020年11月16日発行
特集
頸損ロードマップ
退院編
退院編
-病院を退院した時に準備するべきこと-
心の変化
土田 浩敬
1、はじめに
頸損ロードマップ「退院編」というテーマで、今回は自分の経験したことを、皆さんに知っていただきたいと思います。
2、入院から退院
私は2005年9月14日、仕事中の転落事故で頸椎を骨折して頸髄損傷者になりました。入院中の私は、今までの自分とは全く違う自分になった気がして、失意の底にいました。家族がいる時、友達がお見舞いに来てくれた時、いつもと同じように振る舞っていましたが、21歳だった私は心の底では悲しみに暮れていたのだと思います。約2年の入院生活は短い様で長かったです。理学療法士や看護師、入院仲間と楽しく過ごす時もあれば、手足が動かない状態では何も出来なくて、とてつもなく暇な時もありました。叶わないことですが、手足が動けばなぁと、何度も考えました。
長かった入院生活も退院に近づくと、家の改修工事のことや電動車椅子のこと、退院後の生活についての話し合いがあり、少しずつではありましたが前へ進んで行きました。退院出来る嬉しさはありましたが、今までお世話になった方々と別れるのが、寂しくも感じました。
3、退院そして在宅生活
改修工事の済んだ家は、中に入るための段差解消機を設置して、家の中は車椅子で移動しやすいように、床をフローリングにしました。風呂場も面積を広くするための改修工事を行いました。同時に浴室にリフターを設置して、浴槽につかれるようにしました。
私が受傷する前の家から、少し改修工事を行った程度でしたが、家が変わった様子と私が変わってしまったことにも、退院した時に感じたような寂しさがありました。
介護用ベッドに介護用リフト、電動車椅子、エアーマット、シャワーキャリー、環境制御装置(現在は使用していません)、除圧用クッションなど、様々な福祉用具、介護用品を揃える必要がありました。私の場合は、仕事中の怪我ということで、労災保険が適用されて、福祉用具を購入する場合には、労災保険と旧障害者自立支援法(2012年から障害者総合支援法に改正)を使い分けて使用しました。正直なところ、そんな制度があることを全く知らなかったのと、利用するにあたって何が何だかさっぱり分かりませんでした。結局両親に全て任せていました。
退院後は、少しずつ生活のリズムを組み立てていく感じでスタートしました。とりあえず1週間の流れのなかで、入院中と同じように排泄2回はそのまま続けました。入院中は1週間に2回だった入浴ですが、ヘルパーサービス(以降ヘルパー)を利用することで、3回入浴が可能であると市の福祉課の方から聞きました。それなら使ってみたいと思い、ヘルパーを利用することにしました。ただ、利用し始めた頃は、入浴する曜日や時間帯が定まっていませんでした。本当ならば、午前中に入浴したいと思っていたのですが、私の希望する時間帯と、ヘルパーが入れる時間帯が合わない日が続きました。当時は時間帯を変えればサービスが使えるということで、夕方に入浴することもありました。時には、母が一人で入浴介助をした時もありました。在宅生活初期は分からないことが沢山あって、試行錯誤を重ねながら生活の基盤を整えていきました。
それから入浴はヘルパーと訪問看護を利用するようになりました。
尿管理は膀胱楼を造設していたので、2週間に1回、約2時間かけて母が運転する車で通院していました。平日の日中に通院していたのですが、母が一人で5年間続けてくれました。私のような肢体不自由者を車に乗せて通院することは、大変だったと思います。日中の介護も、父は仕事に出ているので、母が一人で介護をしていました。私自身少しずつ外出する機会が増えて、活動的になっていく反面、母や家族の負担が増えていったのは明らかでした。母親が介護の中心となって、負担が増えている傾向に、あるのではないでしょうか。私の経験上、相談する場所や機会がない、相談する人がいない、また家族がその問題を抱え込もうとする場合が多いと、聞いたことがあります。それでは、なかなか解決の糸口が見つからないのが、私の経験上言えることです。
4、自立に向かって
私の場合も介護疲れ、介護負担という問題を抱えていたのですが、幸いなことに相談出来る方が同じ兵庫県内におられました。何度か相談させてもらう機会がありました。それは、現状から抜け出すために、一人地域で暮らすことを考える機会となりました。そして、この状況を変えるきっかけとなり、自立して一人で暮らすことを決意しました。母や家族の介護負担をなくして楽にしたい。家族それぞれの人生を歩んで欲しい。そして、私自身も自分の人生を歩みたいと。
決意はしたものの、そう簡単にいくものでもありません。一つ越えてはまた一つ、また一つと大きな壁が待ち構えているのです。そしてその壁は、この壁を越えてみろと言わんばかりの大きな壁で、まるで自分を試されているようでした。
はじめての入院、はじめての手術、はじめての外出、はじめての外泊、はじめてのことを沢山経験しました。その都度、大きな壁が立ちはだかるのですが、一人暮らしという壁は、さらに大きく私の前にそびえ立ちました。何度も心が折れそうになり、楽な方へ行きそうになりましたが、そうはいきませんでした。この決意は私一人だけのものではありません。家族、そして支援者と複数の人が関わっているわけであります。そんな容易くやめることなど出来ないのです。
5、一人暮らしが近づく
一人暮らしに向けて、不動産屋に物件を紹介してもらい、何件も見学に行きました。1日に5、6件見てまわることもあり、全て合わせると50件ほど見てきたと思います。
その中から、私の考える条件というのは、玄関から車椅子でのアプローチのしやすさ、入浴のしやすさ、物件の間取り、家賃、周りに公共交通機関や銀行、郵便局、スーパーといった生活に必要と思われるものが揃っているのか。すべて望み通りの条件を満たすことは難しかったので、妥協する点も考えて物件を決めることにしました。
そうなれば、とんとん拍子でことが進み、いよいよ引っ越しとなりました。引っ越しまでの間は、市役所で様々な手続きから、ヘルパーの介助練習が続きました。家族以外の介護に慣れていなかった私は、他人の介護に対して不安がありました。
引っ越しの準備が整い、不安材料を出来るだけ減らして引っ越しの日が近づいてきました。
いよいよ、引っ越し当日。朝から入浴を済ませて、私の住んでいた丹波市から三田市へ向かいました。初日は市役所で転入手続きに時間を費やしました。
引っ越し初日の夜、一人暮らしに対する喜びと、家族から離れる寂しさがありました。
6、さいごに
私が受傷した当初は、以前の自分とは変わってしまい、普段関わる人達も変わったことで、疎外感や劣等感を覚えました。しかしその感情は、引っ越しした時には変わっていました。私は、越えてはまた現れる壁を何度も乗り越えたことで、以前とは違う自信がつきました。確かに変わってしまったところは多くありました。何事も上手くいかず、何度も悔し涙を流しました。しかしそれで失ったものを補うくらいの、精神面での成長がありました。そうです、人は見た目や周りに関わる人で、全てが決まることはないのです。やれば出来るのです。それをやるかやらないか、自分の心が1番の敵であり味方でもあるのです。