特集 頸損ロードマップ 退院編 退院時を振り返ってみて 橘 「縦横夢人」2020年秋号(No.30)

「縦横夢人」2020年秋号(No.30)2020年11月16日発行

特集
頸損ロードマップ
退院編

-病院を退院した時に準備するべきこと-


退院時を振り返ってみて

PDF 退院時を振り返ってみて 橘

橘 祐貴

はじめに

 今回の特集は「ロードマップ・退院編」として、病院を退院して自宅での生活を始める際に準備をした事、しておくべきだった事について、当時を振り返りながら考えてみます。私が病院を退院したのは14年前なので、現在とは制度や状況が異なる部分もあります。

受傷してからどのくらいで退院しましたか?

 私が病院を退院して自宅に戻ったのは 2006年の4月中旬でした。受傷したのが 2004年10月だったので、約1年半の間入院していたことになります。最初に搬送された災害医療センターから神戸赤十字病院、甲南病院、兵庫県立総合リハビリテーション中央病院を経ての退院でした。当時の私は起立性低血圧がひどく、ベッドから車いすに移乗するまでに30分程度ギャッジアップが必要でした。体重も40kgぐらいでガリガリでした。

退院後の住居は受傷前と同じでしたか?

 退院後は受傷前に住んでいた自宅に戻りました。自宅マンションは2000年築で、ある程度バリアフリーに対応していたため、住宅改修はしませんでした。退院後の私の部屋は、リビングと接した4畳半の和室になりました。部屋に電動ベッドを置くとスペースがギリギリだったため、ベッドの頭側にあった吊り押入れを解体しました。ただ、実際に生活してみると、入浴後に濡れたシャワーキャリーで移動することで畳が傷んでしまい、1年後に和室を洋室にリフォームしました。浴室にリフトを入れる事も考えましたが、天井走行のリフトを設置するには、マンションの躯体を触ることになるので無理でした。

どのような福祉用具を導入しましたか?

 退院時にまず用意したのは、自宅で生活を送る上で最低限必要な電動ベッドと介護用リフト、介助用車いすでした。私の場合、移乗は全介助なので介護用リフトが必要です。床走行式のリフトは場所をとるため、据置式のリフトを購入することにしましたが、当時は据置式のリフトは制度助成が認められず、結局自費で購入しました。現在は据置式リフトも助成の対象になっています。
 電動ベッドと介助用車いすは制度助成を利用しましたが、私の身長に合う製品を見つけるのに苦労しました。電動ベッドはフレームを延長しましたが、ベッドの足元部分を延長するだけだったので、ベッドの折り目と腰の位置があいませんでした。エアーマットはどの製品が身体に合うのかわからなかったので、購入はせずにレンタルで使用していました。半年ほどエアーマットを使用してみましたが、背中の蒸れなどの問題で合わず、使用をやめて別のマットレスに変えました。介助用車いすは、海外メーカーだったうえに標準モデルよりも座幅が小さい製品だったので、自宅に来るまでに 3カ月ほどかかり、それまでは車いすをレンタルで借りていました。

退院後の医療・看護について教えてください。

 自宅に戻ってからの排便は 2~3日おきに下剤を飲んでトイレで行っていました。そのため訪問看護は受けていません。訪問リハビリは週に1回来てもらっていました。医療については、頸髄は最初に入院した神戸赤十字病院の整形外科にかかりつけになってもらいました。ただ基本的に経過観察なので、診察に行くのは半年~1年おきぐらいです。泌尿器科は通院先の診療所の入口に段差があり、自宅で採った尿を家族に持って行ってもらい、診てもらっていました。歯医者はたまたま近くにできた診療所が車いすでも入れたので、そこに通うことになりました。
 困ったのは体調を崩した時に診てもらう所がなかったことです。当時は熱が出ることが多く、「何となくお腹が痛い」ということもよくありました。しかし近所の内科に行っても、「頸髄損傷はよくわからないから別のところに行って」や「かかりつけの病院に行ってみたら?」といわれることもよくありました。かかりつけ医は整形外科で大きい病院を予約外で利用するとなると、診察までに長時間待つ必要があります。そんなことが何度かあったので、「行ってもまた断られるのでは?」と思うようになり、病院に行くのを躊躇するようになりました。現在はバリアフリー対応の診療所がいくつもでき、ちょっとした風邪程度であれば診てもらいやすくなりました。ただ頸損のことを理解している医師はまずいないので、「熱がなかなか下がらない」という時にどこの病院に行ったらいいのか、今でも悩みます。

退院してからの介助体制はどうでしたか?

 退院後2カ月間は、日中は主に母が私の介助を行っていました。7月より母が復職することになり、6月下旬から平日の日中にヘルパーを利用することになりました。最初の利用時間は昼2時間、夕方 1時間の計3時間でした。ヘルパーの訪問時間の間には 2~3時間の空白があり、その間はベッド上で過ごしていました。しかし当時は起立性低血圧がひどく、ベッドから車いすに移乗するまでに30分近くかかってしまい、その他の介助時間がほとんどない状態でした。そのため支援センターの担当者に相談しながら、少しずつ介助の時間を延ばしてもらいました。
 ヘルパー事業所を探すのにも苦労しました。支援センターの担当者が事業所を探してくれましたが、私が高位の頸髄損傷ということもあってかなかなか見つからず、ようやく2つの事業所が見つかりました。その時の1つの事業所は、今も支援に入ってくれています。
 事業所は見つかりましたが、「鍵の扱いをどうするのか?」も問題になりました。オートロックのマンションだったので、ヘルパーの訪問時に誰かにエントランスの扉をあけてもらう必要がありました。ただ、各事業所に合い鍵を持ってもらうというのは防犯上良くありません。そこでマンションの管理棟の方で鍵を預かってもらえないか相談してみました。このような事例は今までになかったそうですが、了承されました。ただ、鍵を管理棟に預けたままというのは困るということだったので、毎朝母が出勤するときに管理棟に鍵を預け、帰宅時に鍵を引き取るようにしていました。ヘルパーや訪問リハビリの訪問時には管理棟で鍵を受け取り、オートロックを開けてもらっていました。それでもはじめの2カ月ほどはわざわざ明石から祖父に来てもらいました。

退院時に不安だったことや困ったこと、知っておきたかったことはありましたか?

 退院時はまだ「自分がなぜこのような身体になったのか?」を何となく理解したつもりではいましたが、受傷前後数カ月間の記憶が飛んでいて納得はできませんでした。「もしかすると長い夢を見ているのかもしれない」とも思っていました。たまたま受傷前にブログを書いていたので、退院後に記事を読み直すことで、欠けていた記憶を取り戻すことができました。自分のブログがこんな形で役立つとは思ってもみませんでした。
 これから先のことについては、「いずれは一人暮らしがしたい」とは思っていました。頸髄損傷で一人暮らしをしている人がいることは聞いていましたし、県リハの時に今度一人暮らしを始める方に話しを聞く機会もありました。しかし、動くことのできない自分がどうやって生活していくのかイメージができませんでした。そんな時に支援センターの人に近所で一人暮らしをしているALSの方を紹介され、自宅を見せてもらいました。その方がわずかに動く指先でパソコンや機器を使いこなしている姿を見て、「自分も一人暮らしできるかもしれない」と希望を持つことができました。実際に生活をしている人を見ることができたのは当時の私にとって大きな出来事でした。

まとめ

 今回は私が退院した時のことについて振り返ってみました。あの頃はまだ10代で、退院までの準備や手続きはすべて両親にやってもらっていたのでわからない部分も多くあります。多くの人がそうだったと思いますが、私自身は現実を受け止めるのに精いっぱいでした。今ふり返って見ると「こうしたらよかった」ということも多々ありますが、あの時は精いっぱいだったので仕方がなかったのかなと思います。私の経験が受傷された方にどのくらい役立つのかはわかりませんが、少しでも参考になったのであれば幸いです。


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