「縦横夢人」2020年秋号(No.30)2020年11月16日発行
特集
頸損ロードマップ
退院編
退院編
-病院を退院した時に準備するべきこと-
ロードマップ 退院編
𠮷田 一毅
退院は、やっと自宅に帰れるハレの日。しかし、その喜びは中くらいで、漠然とした不安を抱きながら退院したことが思い出されます。新生活に不安はつきものなのでしょうが、この時ばかりは、それまで経験してきた新生活とは大きく異なりました。好むと好まざるにかかわらず、迎えるほかない新生活です。
あらゆる面で一変した生活を始めるにあたり、相当な準備が必要でした。それでも私の両親は、私のために、当たり前のように労力と時間を費やしてくれたのでした。準備は上手くいったところもあれば失敗したところもあり、生活してから気付いたこともあります。退院に向けてどんな準備をしたのか?分かったことは何か?ややハード面に偏っていた退院準備でしたが、私の経験したことが、これから新生活を迎える人の一助になれば幸いです。
なお、私が頸髄を損傷したのは平成5年。当時の制度や公的サービスは、現在と大きく異なりますので念のため申し添えます。
○受傷してからどのくらいの時期で退院しましたか?
入院期間は2年弱ですが、玉津のリハビリセンター中央病院を退院したその足で、同センター内の重度障害者更生援護施設に1年半余り入所しています。病院と施設を合計すると、在宅復帰まで約3年半ということになります。
急性期の治療の後、本格的なリハビリのために転院したのが、玉津のリハビリセンターでした。その期間中、阪神大震災も経験しました。入院期間は比較的長かった方で、リハビリに不足はなく、目標としていたADLは概ね獲得できました。良い時期の退院でした。
ちなみに、重度障害者更生援護施設の入所中には、就労のための研修も経験することができました。その研修後、一定期間ですが、リハビリセンター内で就労の機会を得たのでした。
○退院後の住居は受傷前と同じでしたか?住宅改修を行った場合は改修した箇所や利用した制度についても教えてください。
受傷した当時、私は神戸で一人暮らし。両親は関東の方に住んでいました。私の退院を機に同居することになり、そして、消費税が3%のうちにと急ぎ気味に、私が住んでいた神戸で家を新築することにしたのです。
住宅で最も重視したのは、車イスでの屋内移動を容易にすることでした。そのためには先ず、段差を作らないこと、そして廊下を広めにとることでした。その次に、部屋の出入りを容易にするため、戸は幅を広くかつ軽さを重視し、吊り戸を選びました。それでも浴室には段差を残してしまい、案の定、生活し始めて不便を感じ、段差を取り除く改修をしました。この改修では、助成金制度を活用しています。
また、もっと重視すべきだと思ったのは、いや、軽視してしまったのは、屋内外との出入りでした。屋内の移動にばかり気を取られ、玄関のドア等、屋内外との出入りについては、生活し始めてからその重要性に気付いたのです。
○どのような福祉用具を導入しましたか?また、福祉用具や利用できる制度についての情報はどこから得ましたか?
居室には電動ベッドと天井走行リフト、駐車場に段差解消機を設けました。補装具としては車イス(自走式)とシャワーチェアーです。
情報はPT、OT、MSW、リハビリセンター内の福祉用具展示場等から得たのはもちろんですが、入院中に知り合った頸髄損傷者から情報を得たり、既に在宅で生活されている方のお宅を見学させてもらったり、そのことが大きかったと思います。例えば、敷地の高低差を解消するためには、スロープか段差解消機か?段差解消機にするならどこに置くのか?経験者からいろいろと情報を得たうえで、決めていくことができたのです。
そして、後に悔いることになったのは、屋内エレベーターを断念したことです。私は現在、実家を離れて生活していますが、高齢となった両親は今も、築20余年の実家に住み続けています。これは…想定できなかったのでした。
○退院後の医療・看護の体制について教えてください。(訪問看護やリハビリを受けていたか?)
医療については、退院後も玉津のリハビリセンターに通院しました。当時、かかりつけ医という概念はなかったように記憶しています。
○退院してからの介助体制はどうでしたか?また、介助者を探すのはスムーズに行きましたか?
家族と同居しての生活を選んだのは、両親による介助が前提でした。初めて訪問介護サービスを利用したのは、退院よりさらに数年後、支援費制度ができてからのことです。
○退院時に不安だったことや困ったこと、知っておきたかったことはありますか?また、困った時に相談できる相手はいましたか?
在宅復帰する時、漠然とした不安が確かにありました。その時の不安の漠然さは何だったのだろうか…改めて考えると、思い浮かぶのは重度障害者更生援護施設での生活です。重度障害者更生援護施設では、一定期間、住居の提供や訓練等の支援を受けることができます。私はそこに1年半余り入所しています。そこには、私と同じ頸髄損傷者も多く入所され、既に在宅生活されている方、復学や復職を目指す方もおられました。分からないこと、不安や困ったことは、容易に経験者から情報収集することができたのです。相談相手に困ることはなく、たいへん恵まれた環境でした。
漠然と不安を感じていたのは、そんな環境を離れるからだったのでしょう。情報は容易に手に入り、相談相手が身近にいたのが日常でした。そこから離れる時、これから一人なんだろうか?あぁ今日からどう生きてこう…等と思っていました。不安の正体は、情報が身近に無いからということに尽きます。人脈というかネットワークというか、情報や相談相手が身近にいる環境づくりも、重視したい退院準備のひとつです。
○(勝手に自問自答)失敗はなかったですか?
ありました。生活の全てをイメージするのは無理です。とは言っても、住宅にはお金を使います。できるだけのことをしました。しかし、失敗は少なくなく、新築後の改修もしています。
住宅について、しくじりという授業料を払い、得た教訓は以下の通り。簡潔に3項目。
①使えるかどうかだけでなく、使い易いかどうか
リハビリは短期集中ですが、無期限の日常生活で、無限に頑張るのは現実的ではありません。
戸が開閉し難ければ、出入りはだんだん面倒に、そして億劫に、やがて引きこもりがちに…。しかし、開閉が容易であれば出入りも容易です。気持ちは外へ向かうでしょう。
何回でも使えるか?楽に繰り返せるか?等、使い易さのチェックも重要でした。自由度というか、利便性は使用頻度に影響するように思います。
②特別なものを使うから特別な人
皆と一緒に使いたい。特別に…や、専用の…は、できれば避けたい。特別なものを使う人は特別な人であり、人を隔ててしまう環境は、ある意味、バリアでないかとさえ思ってしまいます。バリアのない環境が、人間関係にもバリアフリーであって欲しいものです。
③自分のタイミングで
在宅復帰後、私は、居室の雨戸を電動に変えました。電動雨戸は自分で好きな時に操作できるので、夕焼けや月をぼ~っと眺めたのでした。
たかが雨戸の開閉です。されど、自分でできる喜びには、実行する喜びだけではなく、心の奥底には、実行に移す判断や決定があり、自分のタイミングがあることを実感したのでした。
○さいごに
リハビリでは在宅復帰を目標とし、退院がゴールだと思っていました。これがゴールじゃなければ何と呼ぶのか、私は知らなかったのです。ゴールはここじゃない、在宅復帰後にそう気付いたのです。それでも障害と向き合う生活ができたのは、退院の準備は、つまるところ、スタート地点に立つための準備だったからです。