特集 頸損ロードマップ 退院編 退院前から退院後について  柏岡 「縦横夢人」2020年秋号(No.30)

「縦横夢人」2020年秋号(No.30)2020年11月16日発行

特集
頸損ロードマップ
退院編

-病院を退院した時に準備するべきこと-


退院前から退院後について

PDF 退院前から退院後について 大阪 柏岡

大阪頸髄損傷者連絡会 柏岡 翔太

 まず自己紹介からさせていただきます。大阪府出身、柏岡翔太(かしおかしょうた)と申します。平成元年生まれの31歳です。高校一年生の時にラグビー部に入部し、高校二年生の四月にラグビーの練習中、タックルの入り方が悪かったのか首の骨を折り、頸髄C2を損傷しました。首から下を自分で動かすことができず人工呼吸器を使用しており、起きている間はマウスピースというチューブを口でくわえていて、寝る時は鼻マスクを使用しています。でも、起きている時は呼吸器を使用せず、気合いで呼吸することもできます!笑
入院当初、主治医の先生から一生寝たきりの状態で歩くことも食べることも出来ないと言われ、当時16歳だった僕には例えようのない衝撃と絶望感に襲われ、泣くことしか出来ませんでした。その日から精神的に深く沈んでいき、「生きていても意味が無い、死にたい、でも自分で死ぬことは出来ない」この言葉が一日中頭の中を駆け巡っていて、落ちるところまで落ちていきました。当時の精神状態はこんな感じでした。今は全然元気ですよ!笑

・受傷してからどのくらいの時期で退院しましたか?

 受傷してから約七か月後に退院しました。搬送された病院では約一か月半入院をして、転院先では約半年間入院していました。

・退院後の住居は受傷前と同じでしたか?住宅改修を行った場合は改修した箇所や利用した制度についても教えてください。

 退院後の住居は受傷前と同じでした。実家はマンションでまず部屋の床をフローリングに変えて、部屋の入り口のちょっとした段差に小さなスロープを貼り付けています。あと、改修ではありませんが玄関に段差が三か所あって、車椅子で移動するときにスロープを設置しています。制度については住んでいる市町村にもよりますが、うちの市は重度障害者住宅改造助成事業というものがありこれを利用しました。これは重度障害者がおられる世帯に、おおむね50万円(上限80万円)をめどとして住宅改造費の助成を行っています。


部屋のフローリングと小さなスロープ


玄関のスロープ

・どのような福祉用具を導入しましたか?また、福祉用具や利用できる制度についての情報はどこから得ましたか?

 まずはパソコン関係でベッド上や車椅子上で使えるように、パソコンスタンドを用意しました。あと、顎で操作できるマウスも用意しました。これは入院中に作業療法士の先生に顎で操作できるように作ってもらったもので、ハーモニカホルダーを加工してトラックボールをつけて顎で操作します。あとは血圧計だったりナースコールだったり酸素を測るサチュレーションモニターだったり、呼吸器の回路を固定するアームを用意しました。ただ、血圧計もナースコールもサチュレーションモニターもすぐに使わなくなりました。
 あと、電動ベッドとエアマットとリフトも準備しました。車椅子が手動のもので、ティルトとリクライニングができて、後輪の内側に人工呼吸器を乗せる板を加工してセットしました。
 これらの福祉用具や制度については、入院中の病院で主治医の先生やリハビリの先生、病院のケアマネージャーさんや母親などが集まって、退院に向けての会議で提案されたと聞きました。僕はこの会議に参加していません。


パソコンスタンドとマウス

・退院後の医療・看護の体制について教えてください。(訪問看護やリハビリを受けていたか?)

 退院後は往診と訪問看護と訪問リハビリを利用しています。往診は月に1回で訪問看護は週に3回、訪問リハビリは週2回来てもらっていました。これらは入院中の病院のケアマネージャーさんが動いてくれて、往診については僕の障害の程度が重すぎて何件か断られたと聞きました。当時は人工呼吸器をつけて退院するという例がほとんど無く、往診の先生に人工呼吸器の処方をしてもらうのにも苦労したと後で聞きました。

・退院してからの介助体制はどうでしたか?また、介助者を探すのはスムーズに行きましたか?

 介助体制については基本的に家族が行っていて、特に母親が中心に介護をしていました。当時は妹がまだ小さくて、保育園の送り迎えに母親が行っている間の30分間ヘルパーさんに入ってもらっていました。いわゆる居宅介護という障害福祉サービスを利用していました。精神的に落ちていた時期だったのでヘルパーさんとほとんどしゃべることもなく、ケアが終わってから母親にこれでいいのかという確認をしたりしていました。あと、週3回訪問入浴を利用していて、この時もあまりしゃべることもなく、迷惑かけていたなぁと思います。訪問入浴の看護師さんヘルパーさんドライバーさんの3名に入ってもらって、始めの頃は呼吸器をつけながら入浴していたので、母親にも入ってもらっていました。シャワーなどいろんな器具がついている浴槽を組み立てている間に体温と血圧と酸素を測って、数値がよかったら入浴が始まります。

・退院時に不安だったことや困ったこと、知っておきたかったことはありますか?また、困った時に相談できる相手はいましたか?

 当時は頸髄損傷という障害をきちんとわかっていませんでした。腕も足も動かせない、呼吸器も外れていないので、こんな状態で退院するのかと不安もありました。でも、早く退院したいという思いもありました。あと、この障害を全然受け入れてなくて、いろんなことを考える余裕がなかったです。僕より家族、特に親がかなり不安だったと思います。
 入院中は、いつ亡くなってもおかしくない状況が長かったこともあり、人工呼吸器をつけたまま退院することがとても不安で「もし何かあったらどうすればいいのか・・・」「もう少し入院期間を延ばせないか」と主治医の先生に言っていたようです。その時点では、往診の先生や訪問看護の看護師さんとも信頼できる関係もまだ無くて、これからどうしていけばいいのか分からなかったみたいです。でも、先生や看護師さん方に少しずつ様々なことを母が教わっていき、私がこれからやっていくんだと踏ん切りがついたというのか自信をつけていったと思います。

 簡単ではありますが、退院前後については以上です。皆さんにとって、何かの参考になれば幸いです。


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