特集 ロードマップ:病院編 頸損者ロードマップ 「縦横夢人」2020年冬号(No.27)

「縦横夢人」2020年冬号(No.27)
特集 ロードマップ:病院編

頸損者ロードマップ

PDF 頸損者ロードマップ

土田 浩敬

1、はじめに
 こんにちは。今号の特集記事である「頸損者ロードマップ」
 皆さんも頸髄損傷者となり紆余曲折しながら、現在までたどり着かれたと思います。そんな経緯と退院まで、振り返りながら辿ってみようと思います。

2、健康体から動けない体になるまで
 2005年9月、私はいつもと同じように朝起きてから身支度を済ませて、いつもと同じ時間に出勤しました。家族も同じように朝を迎えて、私を送り出してくれました。
私は瓦屋に勤めていました。本当にやりたかった事は、アパレルの仕事に携わる事でしたが、いろんなことを経験したいと考えていて、その中で建築業を選びました。理由は物作りが好きだったことと、求人があったこと、友人も建築業で働いていたので興味があったからです。頸髄を損傷したその日は、新築の家の屋根に上がっていました。午前中から太陽光が容赦なく降り注ぎ、汗水流して働いていました。二十歳の私は、毎日過酷な環境の中、屋根の上で仕事をしていました。現場が変わる度に仕事の内容も変わるので、施工の方法を一つずつ覚えることが大変でした。先輩に怒られる毎日でしたが、少しずつ仕事を覚えていくことで、新しいことも任せてもらえるようになってきていました。1袋25キロある漆喰を、一人で30袋程屋根の上にあげてから、必要箇所に振り分けていきます。他にも、のし瓦に銅線を付けて仕分ける作業や、細々とした業務がありました。この頃は、まだ仕事に対してやりがいが見出せず、熱い、しんどい、大変、しかなかったです。ただ、この経験は必ず後で役立つ時が来ると思っていました。
 昼休憩が終わってから午後の仕事に移ります。先輩から、施工場所に漆喰を持って来て欲しいと言われました。私は漆喰を肩に担いで大屋根を10メートルほど歩いて、先輩の所へ持って行く途中、大屋根の角をまたいだところで、右足を足場から踏み外しました。一瞬の出来事でした。私は大屋根から落ちて、下の屋根に一度ぶつかってから地面に叩きつけられました。その瞬間に肩から下の感覚が無くなりました。首から下が無くなったように感じました。目の前の自分の手も、他人の手のように見えて不思議に思いました。身動きが全く取れず、呼吸も苦しかったのですが、数分後に救急救命士が現場に駆けつけて、すぐさま近くにある地元の病院に運ばれました。意識はずっとあったのですが、少し呼吸がしづらかったです。救急救命室に運ばれてからレントゲン、CT、MRIで精密検査を受けたところ、頸椎を圧迫骨折していて頸髄神経を傷つけていると告げられました。手術が困難になると言われて、ドクターヘリで神戸にある救急病院に転院になりました。その間に母や祖父母が駆けつけて、必死になって私の名前を呼んでいました。
 兵庫の山奥から神戸まで、20分足らずで救急病院に運ばれました。頸椎の圧迫骨折ということで、手術する前に骨折している箇所を牽引しなければいけませんでした。局所麻酔をしてから眉毛の上と耳裏2箇所の計4箇所にドリルで穴を開けながら、牽引するための装具を取り付けられました。牽引の説明は受けたのですが、とても衝撃的だったので14年経った今でも鮮明に覚えています。牽引後、私は手術を受けました。手術後は、首を固定するために、ハローベストが装着されていました。術後数日間は熱が下がらず、たんもよく出たのでとても苦しい時期でした。絡むたんを取るために、気管切開をして吸引してもらっていました。ろくに食事もとれず、夜も眠れず早く体が楽になることだけを願っていました。この頃、仕事のことが気になっていて、残った現場の引き継ぎや職場復帰のことを考えていました。そして父に、今後の仕事のことについて話をすると、もう仕事に行かなくてもいい。と告げられました。それを聞いた時、私はなぜかホッとしました。恐らくですが、よほど仕事が過酷だったのだと思います。そんな過酷でしんどかった仕事を、しなくてもよくなったのでホッとしたのでしょう。しばらくすると熱も引いて、私は一般病室に移りました。その間約2週間、ICUからHCU、一般病室と少しずつ状態も良くなってきました。主治医から少しでも早く車椅子に乗る練習をするほうがいいと言われたので、介助用の車椅子に乗せられました。まだ9月で外は暑かったです。血中酸素濃度が低かったこともあって、酸素マスクを使っていました。長時間車椅子に乗ることはまだまだしんどくて、1時間ほどでギブアップしていました。2週間後、容体が安定してきたので、地元の病院に転院しました。転院前に、久しぶりに洗髪をしてもらったのですが、頭がたまらなく痒くて3回目の洗髪でようやく泡が立ちはじめました。ただ頭が痒過ぎて、何度も何度も洗髪してもらったので、出血してシャンプーの泡がピンク色になっていました。

3、急性期から回復期
 転院後はリハ室でリハビリが始まりました。ストレッチをしてもらい、体をほぐした後に座る練習と立位台に移って、起立性低血圧の対応策としてスタートしました。9月に受傷してから三カ月目、再度CTで骨折した箇所を主治医に確認してもらいました。これだったらハローベストを外しても大丈夫と告げられて、後日ハローベストを外し、コルセットをすることになりました。ハローベストを外す際、痛そうで怖かったのですが全然大丈夫でした。コルセットを着けた首は、長期間ハローベストを着けていたおかげで筋肉が衰えて、グラグラで不安定でした。コルセットが外れるのは、3月頃になるようです。
 リハ室に行くために車椅子に乗ることが、習慣となりました。ただ寒い冬の間は病院内を移動するだけの日々です。リハビリの後に売店に寄ることが楽しみでした。特に何か欲しいという訳ではなかったのですが、気晴らしに行っていました。春になりコルセットも外れて、ようやく骨折した首の骨も再生したのですが、それでも体は全く動かず、もどかしさと人に介助を頼むことに精神的にも疲れていました。イライラする日も沢山ありました。骨折は治ったところで直ぐには退院出来ません。電動車椅子に乗ること、家をバリアフリーに改修しなければ退院は難しいのです。次の転院先である、兵庫県立リハビリテーションセンター中央病院の受け入れ態勢が整うまでは、待たなければなりません。夏が来ました。暑い夏です。暑い中、屋根の上に登って仕事をしていたことを、外を見ながら懐かしみました。
 怪我をしてからもうすぐで一年が経とうかという時、ようやく転院先から「受け入れ態勢が整った」と連絡が来ました。転院日も決まり、動かない体ではありますが、少しずつ前に進んでいる感じがしました。
私が生まれて20年間、一度も入院したこともなく、何でも不自由なく出来ていた自分が、手足の自由を失ったおかげで何も出来なくなりました。イライラする日も沢山あって、母親に対して偉そうにものを言ったりして、ストレスのはけ口にしていたのかもしれません。無気力で楽しいことなど一つもありませんでした。そんな状態でしたが、家族や看護師、セラピストにドクター、みんな親切で何でも手伝ってくれました。一年間の入院生活の中で、人の優しさに沢山触れました。転院する日、ストレッチャーで介護車両に乗り込む際、辛かったこと、しんどかったこと、ハローベストが外れたこと、人の優しさに沢山触れたこと、様々な思いを胸に病院を出発しました。出発する私は、介護車両の中で大泣きをしました。こんなに泣いたのは生まれて初めてでした。家族も看護師さん達も泣いていました。

4、転院、頸損者と初めての出会い
 転院先で入院の手続きを済ませて、病室に移りました。初めて会う看護師さん、セラピスト、ドクター、初めての環境に少し緊張していました。仙骨部に褥瘡が少しあったので、完全に治ってから車椅子に乗るようにと告げられました。一か月間、ベッド上での生活です。慣れない環境で、知らない人ばかりで楽しみも何も無かったです。ベッド上で1日1日がとても長く感じました。窓の外を眺めながら、退屈な日々を過ごしました。
 私は人見知りするほうなのですが、色んな方が絶えずベッドサイドに来るので、少しずつ会話をしていくうちに、打ち解けて行きました。そしてたまたま隣の病室に、同郷の同学年、共通の友達がいる青年が入院していたのです。また偶然にも、その彼と同じ病室に私が移動することになりました。私にとって、その彼がいてくれたおかげで、入院生活が少し楽しいものになって行きました。こんなケースはほとんどないと思いますが、何でも話せる話し相手は必要だと感じます。
 そして少しずつですが、車椅子に乗ることも許可されて、リハ室でリハビリをするようになりました。リハ室でのリハビリ初日、セラピストから「土田くんと同じレベルの頸損が今日リハ室に来てるから紹介するわ」と言って紹介されました。それは兵庫頸髄損傷者連絡会の事務局長である宮野氏でした。「何かあれば連絡下さい」と名刺をいただきました。海外製の電動車椅子に乗っていること、一人暮らしをしていること。私は初めて、電動車椅子に乗っている頸損者と出会いました。そして、海外製の電動車椅子、一人暮らし、社会参加。私が目指すところはこの人だと目標が出来ました。

5、電動車椅子との出会い、そして退院へ
 私にとって、電動車椅子との出会いも人生を変えるターニングポイントの一つでした。電動車椅子で自由に動ける喜びと、移動出来る便利さを肌で感じました。それからというもの、私は毎日電動車椅子に乗って、病院内や外に出ることが楽しみとなりました。病院の中を自由に移動して、看護師やセラピスト、ドクターが電動車椅子に乗っている私によく声を掛けてくれました。病院から外へ出て、買い物や食事を楽しみました。自然と会話も増えて、楽しみが出来ていくとともに、失いかけていた生きる希望も大きくなっていったのだと思います。
 排泄管理について、膀胱ろうにすれば便利で、社会参加しやすいと入院中の頸損者や看護師に勧められました。私は社会参加や便利だという意味が、分かりませんでした。合わなかったらまた戻せると聞いたので膀胱ろうにしたのです。健常者として生きてきた私は、障害者、社会参加、排泄管理、健康体だった私にとって無縁の世界だったのです。膀胱ろうにしてからは、尿パッドをせずに下着とズボンを履くことができるようになって、見た目もスマートに便利になったのですが、留置カテーテルが詰まりやすいという欠点がありました。この時に私は、結石が出来やすい体質だと知りました。これは今でも私の課題であります。
 翌年2007年5月に私は退院することになりました。それまでに自分に合った電動車椅子を製作すること、エアーマットと電動ベッド、介護リフター、シャワーキャリー、浴室用介護リフター、段差昇降機、除圧クッションなどが必要になりました。それと家をバリアフリーにする改修工事も必要でした。色々な方の意見を参考にし、バリアフリーモデルルームも参考にしました。福祉用具は、病院に併設する福祉用具の展示室に足を運び、セラピストの意見を参考に、生活することをイメージして決めました。それらの福祉用具は、受傷して14年経った今でも使用しています。介護方法などは、看護師やセラピストから母に直接指導されました。

6、さいごに
 足掛け3年、長かった入院生活もこれで終わりです。ですが入院よりも、これから先の人生の方が遥かに長いのです。私はまだ、これから先に起こりうる困難を知らなかったのです。
 地域社会における重度障害者の生き辛さ、家族の介護負担、見通しのつかない人生。不安の中で光が見えないままでしたが、人との繋がりが重度の障害がある私の人生を変えました。今回は退院までの話でしたが、また機会がありましたら、その後の様子をお伝え出来ればと思います。


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