追悼集 赤尾広明さんとの思い出 「縦横夢人」2020年春号(No.28)

「縦横夢人」2020年春号(No.28)

追悼集
赤尾広明さんとの思い出

PDF 赤尾広明さんとの思い出
 大阪頸損連絡会会長の赤尾さんが亡くなった。訃報を聞いた時「なんで?」「どうして?」赤尾さんなの、としばらくは受け入れることができませんでした。大阪頸損の新年会では同じテーブルだったのに。
 赤尾さんと言えば「お肉大好きな人」を思い出します。岐阜で頸損連絡会の大会があったとき、帰りにお土産を買うからと言ってショッピングモールに行きました。別行動をすることにし、再度出会ったときは「飛騨牛のステーキ店」の前でした。やっぱりか、と思うのは僕だけでしょうか。そして極めつけは、焼き肉の本場韓国に行きました。2007年の9月です。DPIの世界大会が韓国で開催されました。それに大阪、兵庫から頸損者が大勢参加しました。その時の状況を写真で語ります。

三戸呂克美


DPI世界大会会場にて(韓国)

階段昇降機利用(韓国)

韓国の仲間との1枚

旧王宮(韓国)にて
 まるでチャングムの世界に入ったよう に歴史ある建物(王宮)を見学しました。 写真はたくさんありますが、どれから載せ ようと思案して選んだのがこれらの写真 でした。ご冥福をお祈りいたします

 参りました。突然いなくなるものだから、いろいろと相談したいことがあったのにできず仕舞いになっちゃったじゃないですか。昨年12月15日に開催した兵庫支部の定例会に来てくれたときには元気そうだったじゃないですか。11月2日の人工呼吸器シンポジウムに来てくれたときも、いつも通りの様子でしたよね。最近は、赤尾さんがいるのが当たり前だったので、顔を合わせても月並みな会話しかしませんでしたね。今さらながらもっと話しておけばよかったと後悔します。私のような人は多いんじゃないかな。 赤尾さんの歌うスピッツの『チェリー』が好きでした。出しづらい声を目いっぱい出して気持ちよさそうに歌う赤尾さんが好きでした。聞き取りづらかったけど、あのハスキーボイスも好きでした。2010年の全国総会・京都大会終了後に行った東本願寺のこと覚えてますか?あのとき「ひとり暮らししたい」ってお願いしていましたよね。そこから3年後にひとり暮らしができてよかったですね。願いが叶いましたね。でも「彼女がほしい」という願いは叶いませんでしたね。肝心なところで勇気が出せず、そんな弱気な自分を自分で励ましているカワイイあなたが好きでした。
 実感はないけれど、それでも言っておかなければいけないんですよね。いつかまた会えると思いますが、それでもひとまずは『さようなら』。

宮野秀樹


 私が、赤尾さんと初めて会ったのは「しあわせの村体験合宿」でした。初参加だった私は、冷や汗が流れるぐらい緊張をしていました。それに気づいて、赤尾さんが「みんなおるから、安心したらいいよ。」と声を掛けてくれました。兄貴ってオーラが出ていました。しあわせの村体験合宿後から、シンポジウムなどでも会う機会が増え、そのたびに「いつでも連絡してきてよ。」と気にかけてくれていました。赤尾さんのまわりには、いつもたくさんの仲間がおられました。誰かのために動き続けられているイメージがとても強いです。またグルメ通の赤尾さんに、何度か食事に誘ってもらい、ラーメン、焼肉など、とびっきり美味い店に行くことができました。また行こうねと約束をしたのですが、なかなか予定が合わずに行くことができませんでした。そんな中、大阪大会が決まり、赤尾さんから直接電話がありました。実行委員として助けてほしいとの内容だった。「わかりました。」と伝えると、すごく喜んでくれました。大阪大会も無事に終えることができ、ゆっくり食事に行こうと約束したのですが、約束を果たすことはできませんでした。ただ後悔するばかりです。赤尾さん、これからも見守っていてください。ありがとうございました。 

島本卓


 赤尾さんと初めてお会いしたのは、平成21年、舞洲での宿泊体験合宿でした。初めての宿泊ということで緊張していましたが、お互い音楽が好きなことが分かり、すぐに意気投合しました。そして、一人暮らしをされている事や、ご自身で事業所を立ち上げられ、活動されていることを聞いて、自分でもやりたいと思うようになりました。まだ、私は夢を夢は半分しか実現していませんが、そんなきっかけを私にくれたのはあなたでした。尊敬する先輩です。家を訪問させて頂き、人生のアドバイスを頂けたことは一生の思い出です。本当にありがとうございました。
 謹んでご冥福をお祈りします。

伊藤靖幸


 初めて赤尾さんとお会いしたのは頸損連絡会に入会した2007年の2月、明石生涯学習センターで行う市民公開講座の下見の時でした。電動車椅子に乗っておられ、映画やライブが大好きで、頸損の方の中でも落ち着きがあり、紳士的な印象を受けました。話し方も優しい口調で、誰もが信頼できるリーダーぶりを発揮し、時にはご意見番という今まで出会った事のないタイプの方でした。特に印象に残っているのは、2008年の全国大会の大会委員長を務められ、多くの頸損者の仲間に影響力がある発言をされていました。
赤尾さんは私と年が近く、色んなアドバイスをして頂き、自分も何処か目標に掲げた第一人者として慕っていた大先輩でした。これからも多くの事を学びたいと思っていた矢先、訃報の連絡を受けた時は、本当にショックでした。
 赤尾さん、あなたに出会えた事を誇りに思います。今後の活動も天国から見守っていて下さい。ありがとうございました。またお会いしましょう。

米田進一


 赤尾さんとは頚損連のいろいろな行事でお会いすることがあり、「一人暮らしもしているし、積極的に活動していてすごい人だなあ」と思っていました。なかなかお話しする機会はなかったのですが、昨年末の定例会の時に私の電動車いすの話題で喋ることがあり、「これからもいろいろお話ししたいな」と思っていたところでの突然の訃報に大変驚きました。もっといろいろなことを話したかったし、教えてもらいたかったです。
 心よりご冥福をお祈りいたします。

橘 祐貴


 今から9年ほど前、頸損連のイベントだったと思います。何のイベントだったかは覚えていません。私はまだ、頸損の方たちと出会う機会も少なく、人見知りだったので誰とも話そうとしませんでした。誰とも話さなくてもいいやと思い、イベントが終わったら早く帰ろうと準備をしていると、赤尾さんから声をかけてくださいました。同じチンコントロールタイプの電動車椅子に乗る方を見かけたのは、これまで合わせて4人目でした。C4レベルの頸損者と出会う機会が少ない私には、とても貴重な出会いでした。何を話していいか分からず、好きな音楽の話をしていました。偶然にも、赤尾さんも音楽好きということで、話が盛り上がりました。それからは、頸損連のイベントに行く度に、赤尾さんと話す機会がありました。音楽の話から始まったのですが、そこから普段の様子や、これまでの経緯なんかをお聞きして、人それぞれ色々な背景を持っていると感じました。私自身は2012年から一人暮らしを始めて、様々な所に行かせてもらう中で、大阪の役員会に出席するようになりました。そこで、毎月赤尾さんと出会うようになり、赤尾さんに出会うことが当たり前のようになりました。最近では、褥瘡や骨折に悩まされながらも、外に出られる赤尾さんを見かける度に、体調は大丈夫かなと心配していた矢先の訃報でした。赤尾さんから教えていただいたこと、赤尾さんを見て学んだことを自分の生活に活かしながら、赤尾さんの分まで悔いなく生きようと思います。赤尾さん、ありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

土田浩敬


 赤尾さんを知ったのは1993年。彼は私が運営するパソコン通信のネットワークに登録してきた。ハンドルは「ちび太」だったり「チビデカ」だったり。由来は聞いたけど、忘れた。背の低いひとだと思っていた。同じ頸損で電動車いすを常用しているということで、早々に頸損連へ誘うことになり、程なく彼は大阪支部に入会してきた。同じスポーツ事故で受傷、映画はよく観ているので話が合いそうに思えたが、1990年代以前の映画の話になると、途端に彼の未知の領域になってしまい、微妙な距離感がただよった。しかし、彼の提供するホームページ「車いすでシネマップ」(今は閉鎖)は大阪市近郊の映画館のバリアフリー情報としては秀逸だった。
 彼と初めて会ったのは、1996年の夏頃に豊中で行われた大阪支部の役員会だったはずだ。そのハンドルから受けるイメージとは違う長身で、アメリカンフットボール経験者とは思えない細身の色白の男がそこにいた。ネット上では雄弁に語るちび太とは違い、穏やかで小声で話すギャップに不思議な感触があった。社会福祉の基礎構造改革に始まる介護保険闘争、交通バリアフリー法、身体障害者の支援費支給制度の導入の中で頭角を現してきた彼が、急遽空席になった大阪支部会長に推挙されたのは2003年9月。僕は「時期尚早」と反対したが、彼への支持者の多さに押し切られた。役職がひとを育てることに掛けてみた。僕の心配が杞憂だったことは、皆さんの知るところだ。
 その後、改革のグランドデザイン、障害者自立支援法、大阪府の福祉改悪反対闘争などを先頭に立って引っ張っていってくれた。京都支部、当時新しくできた兵庫支部の活動にもほとんど参加していた。兵庫支部が推し進めた中・四国地方の頸損者の開拓にもほとんど参加。四国中央市、広島市、倉吉市にも一緒に出かけた。いつしか彼は、大阪府の障害者運動の重鎮になっていた。
 今でも居なくなってしまったことが信じられない赤尾さん、安らかに。

坂上正司


アサヒスーパードライ肥後橋

代表者会議の帰途・名古屋市営地下鉄桜山駅

四国頸損の集い往路・与島PA

関西テレビアナウンス室にて

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