特集 コミュニティから見た自分の生活 「縦横夢人」2020年夏号(No.29)

「縦横夢人」2020年夏号(No.29)2020年8月11日発行

特集 コミュニティから見た自分の生活

コミュニティから見た自分の生活

𠮷田 一毅

○コミュニティと私

 私はこの度のテーマを聞き、なかなか難しそうだなと思い、一瞬、構えたのでした。今まで生きてきた中で人付き合いは上手い方ではなく、中年のおっさんとなった今でも、新たに人間関係をつくったり、集団に入っていったりすることに少し緊張します。
 若い頃には、集団が目的を共有するのであれば、目指すところは明確で、方法や過程は何でもありだろうと思っていたところがありました。コミュニティを意識することはあまりなかったと思います。人とのコミュニケーションが重要な場面では、乱暴な考え方だったと、今ならそう思います。いや、今でもちょっとそうです。正直言うと、そんなに変わっていません。

○頸髄損傷の急性期には

 障害を受けた直後の急性期、病院での頸髄損傷についての情報は、治療にかかわるものに限られていたからでしょうか、自分に関係する情報であっても実感はありませんでした。
 しかし、転院した玉津のリハビリテーションセンターで、自分以外の頸髄損傷者に初めて出会い、新たな出会いから得た情報は、臨場感たっぷりの生きた情報でした。さらに、それらの情報源について驚いたのは、入院患者同士、頸髄損者同士のつながりが早くも形成されつつあり、情報がそこからのものであったということです。しかし、私はその時、そのつながりがコミュニティであったということ、そして、その重要性や力の大きさには気付いていませんでした。

○障害とコミュニティ

 障害を持つ不自由さのひとつに、障害者はマイノリティであるということがあります。私はスポーツ中の事故による中途障害者で、障害を受けて間もない時期、周囲に障害者は自分含めてほぼ一人という環境で過ごしました。周囲の人はみな健常者、コミュニケーションひとつとっても困難、日々の入院生活をこなすだけでも困難でした。今でこそ同じ頸髄損傷者からの情報がいかに重要か知っていますが、この時期に自らそのことに気付くのは、機会に恵まれない限り困難です。
 私が障害を持ってから、最初の大きな課題は住宅改造でした。何から始めるのか?お金がかかるなあ…と、不安を感じる一方、なるようにしかならんだろうと、安易に且つやや現実逃避的に考えていました。しかし、私は幸運なことに、リハビリ入院中にセラピストを通じ、頸髄損傷者で住宅改造を済まされた方のご自宅を、見学させてもらう機会に恵まれたのでした。
 お宅訪問当日、私はリフトタクシーでお宅に向かいました。到着した瞬間、その車窓から見えた外観ですら…未知との遭遇でした。玄関をすいすいと通り抜け、敷地内に入ってからは驚きの連続で、実感を伴う本当に役立つ情報は、経験者から得られるのだと思ったのでした。建物の構造、建具そして備品に至るまで、一通りお宅を拝見させてもらいました。そしてその後、コーヒーを振る舞ってくださいました。その頃、私は未だ、飲み物をうまく飲むことができず、用意されたコーヒーを前に若干の動揺を覚えたのでした。え?ここでコーヒーか…溢さないように、そ〜っと。しかし、その方はそんな私をよそに、ご自身の使い慣れたコーヒーカップで悠々とコーヒーを飲まれ、私はその颯爽とした姿にとどめの驚きを刺されました。そして、私もその方に飲み方を教わり、見様見真似でコーヒーを飲み、忘れかけていた穏やかな時間を久しぶりに過ごしたのでした。
 障害者となって間もないということもあり、障害を持っているというよりは、負っているといった心理状態だったと思います。コーヒーカップに至るまで、想像のできなかった別世界でしたが、不思議なことに、遠い世界のものだとは感じなかったのです。今にして思えば、私にとって、障害というコミュニティとの出会いの始まりだったといえるのでしょう。

○コミュニティの構成員であるということ

 現在、私は在宅で独居生活を送っており、日常生活を送るにあたり、訪問介護サービスを利用しています。衣食住の日常生活、余暇活動、社会参加のあらゆる場面で介助を必要としており、介助者との良好な人間関係の構築は必須です。人それぞれ、介助者が家族であったりヘルパーであったり様々ですが、介助者と長く付き合うために、良好な人間関係が大切であることには変わりありません。誰もが多かれ少なかれ、その大切さと難しさに向き合っていることでしょう。
 私は、ヘルパーとの良好な関係構築を目指しながら、利用者主体の認識を持ってもらいたいとも思っています。利用者として当たり前の要望であり、ヘルパーの心構えでもあります。単刀直入に表現すると、ヘルパーには高いプロ意識を持って欲しいのです。また、利用者からの要望に応えるのはヘルパーの職責ですが、高い要望ともなれば経験が必要です。経験を積むためには時間も必要です。長い目で、ヘルパーのスキルアップと意識向上を期待しながら、利用者からも必要なことを伝えていく。それにより、ヘルパーとの良好な関係を築き、さらに深めることができると思っています。
 事業者は利用者主体というけれど、介護の専門家といえども、利用者主体とは何か?という問いに、具体的に答えられる人は多くないと思います。「相手の立場に立って」「気持ちに寄り添って」は、もちろんですが、それだけでは漠然として具体的な答えではありません。本当の意味で、利用者主体を理解したヘルパーがひとりでも多く、現場から増えてほしいと思うのです。
 利用者主体とは何か?自らも自問自答を繰り返しながら、最近になって私は、ヘルパーに対し、作業と支援の違いについて理解を求めることを試みています。例えば家事援助。ヘルパーが継続して同じ利用者を訪問することで慣れ、テキパキと作業効率よく家事をこなす一方、家事に没頭したヘルパーには、利用者本人から声をかけるタイミングが限られ、また、主体である利用者は掃除の妨げにならぬようヘルパーに配慮し、この部屋の片隅で掃除が終わるのを待ち、部屋がきれいになったことに感謝しながら、その配慮がいつしか遠慮と混在していることに、何故だろう?と苦慮するのです。疑問は不満、不安の種であり、不信の芽でもあり、ヘルパーと利用者の良好な関係を長く維持するには、やはり利用者主体であることが前提だろうと思います。そして、それを伝えるのは、当事者である利用者の役割でありますが、現実問題、なかなか上手く伝わらないのです。
 利用者からの発信で、利用者本位とは何かを理解してもらいたい。こんな、利用者あるあるや、ヘルパーあるあるについて、思いを共有できれば、これもコミュニティになるのでしょうか。

○これから

 私は、つい最近になって、コミュニティに関し、自分自身が課題を抱えていることに気付きました。私は訪問介護サービスの利用者であり、また、同時に、利用している事業所の当事者スタッフでもあります。そして、生活のかなりの部分を事業所に、一極集中的に頼っています。この現状に、問題意識を持ったのです。きっかけは、障害者に関するあるTV放送を観て、生活の依存先を一つにするリスクについて知ったからです。
 要支援者は、公的なサービスを利用し、平常時は問題なく生活していても、非常時、災害時は、災害弱者といわれるとおり亡くなる割合が高く、依存先を一つにしないことが対策であると。依存先が一つ、自分のことではないか?生活を見直そうか…、しかし何から始めるのか?私はその時だけ焦ったのですが、月日は流れてしまい今日に至ります。そして、障害というコミュニティから見ると、自分の生活は見直しが必要だと、改めて思うのでした。

○最後に

 人との関係を築き、コミュニティで構成員となり、自分の生活をつくっては見直す。これらにゴールはなく、永遠に続くであろうと思うと同時に、コミュニティの存在や力の大きさを実感します。私は、コミュニティから力をもらってばかりの側です。恥ずかしながら、恩返しもまだです。大きい声では言えません。しかし、コミュニティから力を得て生活をつくり、変えていけるということを経験した者として、コミュニティの力なくして今の自分はないと、断言できるのです。


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